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東京高等裁判所 平成6年(う)592号 判決

主文

本件控訴を棄却する。

理由

本件控訴の趣意は、弁護人谷口欣一が提出した控訴趣意書記載のとおりであり、これに対する答弁は、検察官山口一誠が提出した答弁書記載のとおりであるから、これらを引用する。

一  控訴趣意第一点(事実誤認の論旨)、同第三点(法令適用の誤りないし訴訟手続の法令違反の論旨)について

論旨は、要するに、原判決は、被告人が自己の普通預金口座に、正規の送金額四四万五〇〇〇円を超える五六八六万六五二七円が誤つて入金されたことを奇貨として、右過剰入金された金員を引き出して窃取しようと企て、昭和六三年三月二四日から同年四月八日までの間前後五回にわたり、原判示甲野銀行新宿西口支店他一か所において、自己のキャッシュカードを用い、備付けの現金自動支払機より右甲野銀行新宿西口支店長ほか一名管理に係る現金合計五〇〇万円を引き出し窃取したとの事実を認定したが、本件のように、送金を受け入れた三菱銀行の側に何らのミスがない場合には、被告人は、実際上これを払い戻し、解約し、振込送金する等財産権を主体的に処分し得るから、預金の実質上の管理者で、預金を所持(支配)していたというべきであり、この預金について不正な処分行為をしても、他人の所持を奪つたことにならず、横領罪ないし詐欺罪が成立するのは別として、窃盗罪は成立しない、また、窃盗の訴因のまま被告人を横領又は詐欺罪で処罰することもできない、したがつて、右預金を甲野銀行新宿西口支店長等の管理に係るものと認めた上、被告人につき窃盗罪の成立を認めた原判決には、事実の誤認があるだけでなく、法令の適用に誤りがあるとか、訴訟手続の法令違背がある、というのである。

そこで、所論にかんがみ原審記録を調査し、当審における事実取調べの結果をも加えて検討する。

原判決挙示の証拠によると、台湾在住のAは、被告人に商品のサンプルを買い付けて貰うため、被告人宛てに金四四万五〇〇〇円を送金することとし、乙山国際商業銀行忠孝支店に依頼したところ、銀行側の手違いにより、同銀行ロスアンゼルス支店、加州甲野銀行ロスアンゼルス支店を経由して、甲野銀行登戸支店の被告人名義の普通預金口座に、五六八六万六五二七円(円とドルと間違えた四四万五〇〇〇円ドルから送金手数料を差し引いた金額)が入金されたことが明らかである。被告人の預金口座に右金員が誤つて入金された原因は、専ら送金銀行である乙山国際商業銀行忠孝支店及び同銀行ロスアンゼルス支店の手違いにあり、受入れ銀行である甲野銀行の側に何らの過誤がなかつたことは、所論の指摘するとおりであると認められる。

ところで、もともと、預金口座の名義人と銀行との関係は、前者に正当な払戻し権限がある場合であつても、債権債務関係が成立しているだけであつて、銀行の現金自動支払機内の現金について預金口座の名義人が事実上これを管理するとか、所持するとか、占有するとかいう立場にはなく、右現金は、銀行(現実には、当該銀行の支店長)の管理ないしは占有に属すると解するのが相当である。もつとも、横領罪との関係においては、預金口座の名義人に正当な払戻し権限がある場合に、預金債権に対する管理、占有ひいては銀行が事実上占有する金銭に対する預金額の限度での法律上の占有という観念を容れる余地がある。しかし、本件は、送金した銀行側の手違いにより、誤つて被告人の預金口座に入金があつたに過ぎず、被告人に右預金について正当な払戻し権限のない場合であるから(このことは、受入れ銀行の側に何らの過誤がない場合も同様である。)、自動支払機内の現金について、所論のいうように、被告人が管理者であるとか、被告人がこれを所持(支配)していたということのできないことはもとより、被告人が法律上の占有を取得することもないと解される。したがつて、本件については、横領罪の成立する余地はなく、詐欺罪が問題とならないことも明らかであり、銀行の現金に対する占有を侵害したものとして、窃盗罪が成立するというべきである。そうすると、被告人がキャッシュカードで引き出した現金について、甲野銀行新宿西口支店長等の管理に属すると認めた上、窃盗罪の成立を認めた原判断は正当であり、その他、所論に即し逐一検討しても、この点に関する原判決の判断に、所論の事実誤認、法令適用の誤りないし訴訟手続の法令違反はない。論旨は理由がない。

二  控訴趣意第二点(事実誤認の論旨)について

論旨は、要するに、本件預金について、被告人が正当に払戻しのできないものであると確定的に知つたのは、昭和六三年四月二〇日に乙山国際商業銀行の職員からその旨教えられた時点であり、三月二五日に弟との電話によりこれが弟からの送金でないと知つた後でも、他に被告人の口座に送金した者がいるとすれば誰であるのかについて疑念を持つていたのであるから、三月二四日から四月八日までの間に行われた本件各預金の払戻しは、いずれも窃盗の故意なくしてされたものであつて全部無罪とされるべきであり、仮に三月二五日の時点で未必的な故意を認めたとしても、原判決別表1の事実は無罪である。したがつて、右事実を含む公訴事実全てについて被告人を有罪と認めた原判決は、事実を誤認したものである、というのである。

しかし、関係証拠によれば、原判決も説示するとおり、(1)被告人は、昭和六三年三月三日頃、台湾在住のAから、金員を送金した旨の連絡を受け、同月五、六日頃には、四四万五〇〇〇円の送金手続きをした旨の乙山国際商業銀行発行にかかる送金手数料領収証の写しの送付も受けたこと、(2)同月七日、甲野銀行登戸支店から被告人に対し、外国の銀行(加州甲野銀行ロスアンゼルス支店)から五六八六万六五二七円の振込があつた旨の通知があつたが、Aが送金したという前記四四万五〇〇〇円の振込通知はなかつたこと、(3)被告人は、同月一一日頃、Aと電話で連絡を取り、五六〇〇万余円を送金したことがあるかを尋ねたが、同人は、そのような大金を送金したことはない旨答えたこと、(4)同月一五、六日頃、甲野銀行登戸支店から被告人に対し、五六八六万六五二七円の外国送金入金通知書が配達されたが、これによると、送金人の氏名は、「A」とされていたこと、(5)他方、被告人の実弟からは、被告人に対し金を送つた旨の通知は全くなかつたこと等の事実が明らかである。なお、被告人は、原審公判廷において、(3)の事実を否定するが、捜査段階の供述と対比し、信用できない。

これらの事実によると、被告人は、遅くとも、甲野銀行登戸支店から配達された(4)の外国送金入金通知書を見た段階で、被告人宛に送金された五六八六万六五二七円が、弟から送金されたものではないことを確実に知つたと認められ、被告人が他にこのような大金の送付を受ける心当たりもなかつたことからすれば、右の時点において、これが何らかの手違いによるもので、勝手に払い戻すことの許されないものであることをも確知したと認めるのが相当である。

これに対し被告人は、原審及び当審各公判廷において、昭和六三年の一月から二月にかけて台湾に渡つた際、同地に在住する実弟(B)に対し、自分が二分の一の持ち分を有する土地とその上の所有建物の売却方を依頼しておいたので、当初は、弟が土地の売却代金を送つてきたものと思つていた、三月二五日に、弟からその金を送つたのは自分ではないと電話で言われたが、その後四月二〇日に、乙山国際商業銀行東京支店の人から説明を受けるまでは、かねて資金の借用を依頼していたアメリカのC氏からの送金ではないかと考えていた旨、所論に沿う供述をしている。しかし、被告人の弟Bは、台湾内政部警察署刑事警察局等の調査に対し、被告人から財産の処分を依頼されたことはない旨一貫して供述している上、被告人の供述する弟との不動産の処分の話は甚だ漠然としているので、この点に関する被告人の供述は、にわかに信用し難い。のみならず、仮に被告人が弟に不動産の処分を依頼していたとしても、前記の経緯によれば、被告人が(4)の入金通知書を受け取りながら、なおかつ、これが弟から送金されたものであると考えたというのは、明らかに不合理である。また、被告人のいうCとの話も、二か月も前に電話で五〇万ドルの資金を貸してくれないかと依頼したところ、考えておくという返事だつたという程度の漠然としたものであり、仮に被告人が同人に借金の依頼をしたというのが事実であるとしても、同人が、何の連絡もなくこのような大金を送金してくることは通常考えられないことであるから、甲野銀行の口座に入つた金員が同人から送金されたものではないかと考えたという被告人の供述は、到底信用することができない。

そうすると、三月一五、六日頃には、被告人が、本件預金についてこれを正当に払い戻す権限がないことを確実に認識していたと認め、公訴事実全てについて被告人を有罪と認定した原判決は正当である。原判決に所論の事実誤認はなく、論旨は理由がない。

三  控訴趣意第四点(量刑不当の論旨)について

論旨は、原判決の量刑不当を主張し、本件については刑の執行を猶予すべきである、というのである。

そこで、所論にかんがみ原審記録を調査し、当審における事実取調べの結果をも加えて検討する。

本件は、被告人が、銀行側の送金手続きの誤りにより、自己の普通預金口座に、本来の送金額の一〇〇倍を超える五六〇〇万余円が入金された際に、うち五〇〇万円について自分の正当な預金でないことを知りながら、現金自動支払機から右金額の現金を引き出して窃取したという事案である。被告人は、高額の金員が自己の普通預金口座に入金されたのを知るや、その翌日に早速一五〇〇万円を引き出したのを始めとして、その後本件の起訴分(三月二四日から四月八日までの五回の合計五〇〇万円)を含め、結局ほぼ全額の払戻しを受けている。このような千数百万円は、乙山国際商業銀行に対する弁済のために充てられたとみられるが、それ以外の金員は、贅沢品の購入や先物取引への資金の投下、さらには、前の勤務先で起こした横領事件の被害の弁償等に充てられている。また、被告人は、銀行側からの返還請求に対し、前記預金口座から引き出した分を含め合計二二〇〇万円の返済をしているが、未返済の債務は、未だ約三四〇〇万円にも達しており、その返済の見通しは立つておらず、実質的な被害者である乙山国際商業銀行側の被害感情は融和されていない。しかも、被告人は、不合理な弁解を重ねて窃盗の犯意を否認しており、被害者側からの示談の申出に対する対応も不十分で、本件につきどれだけ真剣に反省しているのかも疑問である。

確かに、被告人が本件犯行を思い立つたのは、銀行側の手違いで思いがけず前記のような大金が被告人の預金口座に振り込まれたからであつて、本件においては、実質的な被害者である乙山国際商業銀行の側に、被告人の犯行を誘発する落度があつたという事情があり、この点は、本件の量刑を決する上で十分斟酌されなければならない。また被告人は、前記のとおり、本件預金のほぼ全額を引き出してしまつているが、本件において現実に起訴され審判の対象とされているのは、窃盗の犯意の明確なそのうちの五〇〇万円分だけであるということを量刑の基本としなければならない。しかし、以上の諸点に加え、被告人は、十二指腸潰瘍の持病もあつて健康が優れず、既に七二歳という年齢に達していること、被告人にはこれまでに何らの前科がないこと等所論が指摘し証拠上認め得る被告人のため斟酌すべきその余の情状をできる限り考慮に入れても、本件が刑の執行猶予を相当とする事案であるとは考えられず、被告人を懲役一年四月に処した原判決の量刑は、刑期の点を含めやむを得ないものであつて、これが重過ぎて不当であるとは認められない。論旨は理由がない。

よつて、刑訴法三九六条により本件控訴を棄却することとし、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 佐藤文哉 裁判官 木谷 明 裁判官 金山 薫)

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